心斎橋アセンス と「マイ・ライフ・アズ・ア・ドッグ」

2018年9月30日、心斎橋アセンスが閉店した。心斎橋アセンスは、大型書店にはないマニアックな棚そろえで、多くの人から支持されていた本屋さんだ。時代の移り変わりで、さまざまな書店がつぶれてきた。とりたてて、騒ぐようなニュースではないのかもしれない。ただ、心斎橋アセンスには少しばかりの思い入れがあった。

初めて、心斎橋アセンスで本を買ったのは1989年の夏だった。本のタイトルは「マイ・ライフ・アズ・ア・ドッグ」。世界文化社から刊行していた単行本だった。もしかすると、それ以前に雑誌などを買っていたかもしれないが、はっきりと記憶に残っているのは、この本だ。

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先に、映画「マイ・ライフ・アズ・ア・ドッグ」を観ていた。監督は、ラッセ・ハルストレム。代表作は「ギルバート・グレイプ」「サイダーハウス・ルール」「ショコラ」など。ラッセ・ハルストレムは、どの作品でも、小さな人間を描いている。小さな人間とは、決して社会的に恵まれた地位にあるわけでもなく、ただ小さな世界で必死にもがいている人のことだ。たとえば、「ギルバート・グレイプ」では、ジョニー・デップ演じるギルバートが一家の大黒柱として母や兄弟姉妹の面倒をみていた。ラッセ・ハルストレムは、いつもこのような人たちを、優しげな眼差しでとてもていねいに撮っていく。

映画「マイ・ライフ・アズ・ア・ドッグ」にも同じような視線があった。「マイ・ライフ・アズ・ア・ドッグ」の主人公、少年イングマルは「人工衛星に乗せられて死んだライカ犬よりはぼくの方が幸せ」と、自分に言い聞かせている。ママの病気が重くなり、イングマルは田舎の親戚へとあずけられていく。そこで出会った、サッカーとボクシングが大好きな少女サガ、それに村の人たちと、いろいろな出来事をやらかしてしまうというのが映画の簡単なストーリーだ。イングマルを演じていた男の子の表情が、子どもらしい生意気さを残していて、たまらなく愛おしい。ひとめで映画「マイ・ライフ・アズ・ア・ドッグ」を気に入ってしまった。

ちなみに、ここで語られる人工衛星は、ソビエト連邦が1957年に打ち上げたスプートニク2号のことだ。スプートニク2号には、1匹のメス犬がのせられていた。その名前がライカ。実質的に、初めて宇宙へ行った動物だった。この計画は、ライカを地球へ無事に帰還することが考えられていなかった。船内には満足な装備もなく、ライカは打ち上げ開始から数時間後に亡くなったらしい。

話を戻そう。心斎橋アセンスの話だ。

あの夏は、大阪MUSEへライブを見に行っていた。心斎橋に到着したのはオープン時刻よりずっと前だった。近くのアセンスで時間をつぶことにした。そこで、「マイ・ライフ・アズ・ア・ドッグ」の単行本と出会った。たぶん、外国文学の棚だった。あちこちの本屋さんにはよく通っていたけれど、「マイ・ライフ・アズ・ア・ドッグ」の単行本はそれまでどこの店でも見かけたことがなかった。表紙には、イングマルとサガがボクシングの試合後に抱き合っているシーンの写真がつかわれていた。出だしはこんなふうに始まる。

 降る雪に、催眠術をかけられた。
 まぶたがどんどん、どんどん重くなるのを必死にこらえる。もし眠りこんで、降りるはずの駅を乗りすごしてしまったら、降りまちがえて、ぼくを引き裂こうとオオカミどもが待ちかまえる、白く凍りついたツンドラに迷いこんでしまったら……。
 
 引用:レイダル・イェンソン著  木村由利子訳「マイライフ・アズ・ア・ドッグ


すぐに、単行本をレジに持っていった。邪魔な荷物になるのはわかったいたけれど、どうしても欲しかった。ここで買わなければ、もしかすると二度とでお目にかかれないかもしれない。そう思った。

本との出会いは偶然だ。人の出会いと、よく似ている。気に入ったなら、こちらから声をかけるべきだ。その瞬間を逃してしまうと、その人には二度と会えないかもしれない。もし会えなくても、会えなかった人生がつながっていくだろう。それでも、より多くの出会いがあったほうがおもしろい毎日を送っていけるはず。偶然を必然に変えていくには、こちら側のアクションが必要だ。もちろん、本が声をかけてくれるはずもなく、自分から誘いの手を差し伸ばさなければいけない。

帰宅してから、ゆっくりと「マイライフ・アズ・ア・ドッグ」を読んだ。小説と映画には微妙な点でいくつかの違いがあった。小説は、ぼく(イングマル)の一人称で話が進んでいく。小説「マイライフ・アズ・ア・ドッグ」は「男の子」文学だ。イングマルは、映画よりもずっと生意気で、思春期をこじらせている。それにくらべて、映画はフラットだ。イングマルの存在が小説よりも薄い。かつて「男の子」だった人はイングマルに、かつて「女の子」だった人はサラに、自分の姿を重ねていきやすくなっている。

また、小説では、兄、父親、そして「マイライフ・アズ・ア・ドッグ」の重要なファクターとなる母親、そんな家族との確執が色濃く描かれている。そういった点でも、小説のほうが、イングマルの年齢が少しだけ上に見えてくる。それに、映画のラストは、ほのぼのとしたシーンで完結するのだが、小説では細かな仕掛けが隠されていて、イングマルにはとても辛い現実が待ち受けている。もちろん、映画と小説、どちらが優れているかとかそんなものさしは無意味だ。映画には映画の良さがあり、小説には小説の良さがある。どちらも素敵な後味を残してくれる。

もう少し、「マイライフ・アズ・ア・ドッグ」の話を続ける。

それから何年もの歳月が過ぎた。あるとき、インターネット上に「マイライフ・アズ・ア・ドッグ」の日本語ファンサイトを見つけた。個人のサイトだ。その頃、当たり前のようにあった掲示板に、小説のことを書き込んだ。誰も、その存在を知らなかった。すでに、「マイライフ・アズ・ア・ドッグ」の単行本は絶版していた。古本屋で単行本を探してぜひ読んでほしい旨を全員に伝えた。サイトの管理人が読んでくれたようで、映画と小説の違いに驚いていた。そう、単行本を読むと、映画のあるシーンが意味深げに見えてくるのだ。

2003年、「マイ・ライフ・アズ・ア・ドッグ」の文庫本がソニーマガジンズのヴィレッジブックスから発売された。もちろん、購入した。なので、今も手元には「マイ・ライフ・アズ・ア・ドッグ」の単行本と文庫本がそれぞれ1冊ずつある。これまで何度も本の断捨離をしてきたが、2冊の「マイ・ライフ・アズ・ア・ドッグ」は、どうしても捨てられなかった。手の届く場所に置いておいて、いつでも冒頭の文章に触れられるようにしておきたい思いが残っていた。あの時、あの場所で「マイ・ライフ・アズ・ア・ドッグ」に出会っていなければ、こんな気持ちにはなっていなかっただろう。そういう意味で、「マイ・ライフ・アズ・ア・ドッグ」と出会いの機会を与えてくれた、心斎橋アセンスには感謝の念でいっぱいだ。

あの頃に通っていた本屋さんの大半が今はもうない。町の小さな本屋さんは、そのほとんどが消滅した。古本屋さんもそうだ。昨年、出版取次大手のトーハンは、書店ゼロ自治体が全国の2割強を占めていると発表した。また、書店調査会社のアルメディアは、2017年時点の全国書店数が2000年にくらべて、4割強減の約1万2000店であると発表していた。それが時代の推移だと言ってしまえば、それでおしまい。現代には、現代の事情にあった本との出会いがあるのは理解している。だが、近所の本屋さんがなくなるのは、本と出会う機会をひとつ失ったような気がしてならない。

「マイ・ライフ・アズ・ア・ドッグ」のファンサイトは、いつのまにか消えていた。どんな言葉で検索してみて、Web上にはその跡形すら出てこない。「マイ・ライフ・アズ・ア・ドッグ」の文庫本は、すぐに絶版してしまったようだ。Amazonでは文庫本と単行本の中古本が売っている。自分にとっての良い本が、大多数の一般大衆にとっての良い本とはかぎらない。それでも、こんなふうに思ってしまう。「マイ・ライフ・アズ・ア・ドッグ」をどこかの出版社が復刊してくれないかな、心斎橋アセンス復活してくれないかな、と。

小説「マイ・ライフ・アズ・ア・ドッグ」はこんな文章で終わる。結末を抜粋しても、作品の評価にゆらぎはない。だいじょうぶだ。

 降る雪に、催眠術をかけられた。
 まぶたがどんどん、どんどん重くなるのを必死にこらえる。もし眠りこんで、降りるはずの駅を乗りすごしてしまったら、降りまちがえて、ぼくを引き裂こうとオオカミどもが待ちかまえる、白く凍りついたツンドラに迷いこんでしまったら……。
そう、物語は冒頭に戻っていく。


 引用:レイダル・イェンソン著  木村由利子訳「マイライフ・アズ・ア・ドッグ

ある無名の作家が、どこかでこのようなことを書いていた。

ふつうの記憶は過去形ではなく過去進行形で動いている、まるで印画紙みたいに残った、特別な記憶は、現在進行形でふだんの生活に表出してくる

センチメンタルが少々鼻につくが、言いたいことはわからなくもない。読書体験をあてはまれば、かなりしっくりとくる。自分にとって良い本との出会いは、たしかに、特別な記憶になっている。この感覚、おそらく、本を読むことが好きな方なら、誰もがもっている感覚であるような気がする。そして、「マイ・ライフ・アズ・ア・ドッグ」はそんな1冊だ。それはこれからも変わらない。ぜったいに。

 

 

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映画「マイ・ライフ・アズ・ア・ドッグ」はホントにおすすめ!

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ラッセ・ハルストレム監督の作品なら「ギルバート・グレイプ」が好きかな。子役、レオナルド・ディカプリオは天才としか言えないくらいの演技力で、もう完全に脱帽というか語彙力ゼロになってしまう。なぜ、「タイタニック」に出演したのか、よくわからない。他に、もっとキャリアアップできる作品があっただろうに。